2008-05-31(Sat)
新選組を歩く〜落日編その1〜
2008年5月31日 東京/
ども にぽぽ です=*^-^*=
薫風の素足かがやく女かな (日野草白)
風薫らなかったですよねぇ!今年の5月はっo(*≧д≦)o″))
サンダルも、靴箱の中に準備済みだったのに、結局にぽぽの足元はまだ夏をむかえていませんよ!
このまま梅雨に突入でしょうか?
レインシューズを買おうかな( ̄~ ̄;)
悩み中のにぽぽです。
さて、引っ張っております京都旅行も、ようやく最終日の3日目です。
この日は18:00の新幹線で東京に向うまで、新撰組の落日として、鳥羽・伏見の戦いを歩きました。
新選組が京に上って5年目に入った慶応3年(1867)は、政局が一気に変動した年でした。
入京した当初は、幕府要職につく会津と薩摩が手を結び、過激に攘夷決行の構えの長州を、禁門の変等で排除していましたが、この頃は逆に、薩摩と長州が手を結び、一気に尊王倒幕に傾いていったのです。
これに伴って、新選組も坂道をころがるように落日への道をたどっていきました。
2008年3月8日 京都/
にぽぽは8時にビジネスホテルをチェックアウト、おなじみになった堀川通りを南へ。
再びの西本願寺

元治2年(1865)年3月10日に壬生から移り、太鼓楼と後ろに写っている現参拝会館あたりに建っていた北集会所を屯所として使っていました。

新選組の所帯が大きくなり、慶応3年(1867)6月10日には新選組が幕府直参に取り立てられ、まさに最盛期を2年間過ごした場所でした。
ここから二条城や黒谷に意気揚々と出かけていく、近藤局長や土方副長の晴れがましい姿、肩で風を切りながら市中見回りに出かけて行く隊士達の姿が想像できるようでした。
西本願寺の参道

仏具のお店が集って、独特な風情でした。昔からずーっと同じお店なのでしょうね。
同年6月15日、新選組は不動村(現リーガロイヤルホテルの辺り)に屯所を移します。新選組の手荒な振る舞いに耐えられなかった西本願寺が、お金を出し新しく建ててくれた(建てさせた?)ものだったそうですが、大名屋敷のような立派なものだったそうです。
不動村の名の元になったお不動様

不動村屯所を偲ばせるものはなにもなく、リーガロイヤルホテルのあたりに碑が建っているだけです。これがまた、“新選組なんぞという逆賊の縁の建物なんか残しておくな!”というように感じられて、なんともせつない気持ちがします。
西本願寺の北集会所も不動村の屯所も姫路にある本徳寺に移されて、表書院と本堂として使われているとの事なので、いつか見に行きたいなと思っています。
せっかく直参に取り立てられ、近藤局長と土方副長の思いが遂げられたところなのに、二人の思いと反対の方向に時代は動き出します。
同年、10月14日には徳川慶喜が二条城で大政奉還 ・・・
11月18日、新選組と袂を分かち、御陵衛士となっていた伊藤甲子太郎が近藤勇の妾宅に招かれた帰りに新選組に斬られます。油小路の変です。
伊藤甲子太郎が大石鍬次郎らに襲撃された油小路の路地

伊藤甲子太郎絶命の場所、本光寺

油小路から堀川通を見る
道路右側の一番手前(見切れてしまった)ベージュっぽい建物が安寧小学校、近藤局長の醒ヶ井の妾宅はこの辺りにあったらしいです。一番奥の茶系のビルが、リーガロイヤルホテルで新選組の屯所があった辺り、伊藤甲子太郎が斬られた場所はほんの50mも離れていない。小説を読んだときには、結構歩いてから斬られたのかと思ってましたが、妾宅から出てすぐに!斬られたのだなという印象でした。
12月9日には朝廷が王政復古の宣言をし、12月16日には徳川慶喜が京都を出て大阪に引くことを決め、新選組も不動村屯所をたたみ、京都へは二度と戻れない戦いの旅に出ることとなります 。
せつない・・・・
直参取立てという心躍る出来事から、伏見行きまでの展開の速さを、どう理解できたでしょうか。
♪もぉ〜すこしぃ時がぁ 緩やかでぇああぁったならぁぁぁ〜♪・・・ってこれは白虎隊か。(昭和ですいません。解らないヤングゥのみなさんはスルーしてください。)
にぽぽも京都からタクシーで伏見方面に向いました。
にぽぽ 「えーと、墨染の駅の近くの藤森神社へお願いします」
運転手さん 「お参りに行きますの?」
に 「(説明がめんどうで)まぁ、そんなもんです」
運 「勝負事なんかしますのん?」
に 「は?」
運 「藤森神社っていったら勝ち馬に乗るっていってな、勝負事の神さんや」
に 「へ・・・へ〜 そうなんですかぁ」
禁門の変のときに新選組が布陣した九条河原、竹田街道に入って、武田観柳斎が斉藤一さんに斬られた(らしい)銭取橋がタクシーの窓の外、次々に過ぎていきます。
新選組隊士達も伏見に向いながら、ここではあの事件が、あそこではこんな斬り合いが・・・と、それぞれ思い起こしたりしたんでしょうか・・・・。
藤森神社

新選組が伏見に入ってからの事。近藤局長が二条城への用向きの帰りに、御陵衛士の残党に鉄砲で狙撃された場所。実際は藤森神社から丹波筋交いまでのどこかで場所までは特定されていないらしいので、とりあえずにぽぽは藤森神社へ寄りました。
勝負事の神様の辺りで撃たれてしまった近藤局長、これからの未来の暗示だったのでしょうか・・・
肩を打たれた近藤局長は、新選組が布陣している伏見奉行所まで馬で逃げるのですが、後で地図を確認したところその距離約4kmぐらい、馬の早駆け時速25kmぐらいと考えて、約20分〜30分を意識朦朧な状態で馬に乗っていたのですね。
次に向ったのは近鉄桃山御陵前駅のすぐ近く、御香宮
慶応4(1868)1月3日、戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)勃発。
伏見奉行所の最前線に布陣していた新選組と戦った薩摩軍が布陣していた場所です。
伏見奉行所(址)

この2箇所の陣、直線距離にしたら200mぐらいしかなさそうです、現代人のにぽぽの感覚だと、体育祭の男子棒倒しぐらいの距離感です。しかも、御香宮の方が伏見奉行所より約20mぐらい高台になっている。
この距離で大砲の弾が飛んでくるんですもんねぇΣ(|||▽||| )
小説『歳三 往きてまた』の中でも、土方副長が戦を前に隊士達に灘の酒を差し入れ、
自分は
>他になにもすることがなかったので、敵の様子をそのまま観察した。
>(あんな高台から撃ってこられたら)
>背後の奉行所の建物を振り仰ぐ。
>(ひとたまりもねぇ)
>幕府方一万五千、対する新政府軍は五千足らず。圧倒的な数の差は、しかしこの段
階では幕軍の知るところではない。敵の数は見えない。地理的不利がありありと誰の
目にみても明らかだ。
>(不利だな)
>と土方は思った。
とあるのですが、まさにその通りでした。にぽぽでさえ、不利だな〜と思いましたよ!!
薩摩軍が御香宮に布陣したときに、どうして手を打たなかったんでしょうねぇ。
歴史に“もしも”は無いにしても、ゆるすぎですよ、幕府軍たらっ!
こちらは当時、薩摩軍の料理方を担った、魚三楼さん

今も営業中。
その戸口には当時の弾痕がくっきり残っています。

伏見戦はまさに市街戦だったのですね。危ないったら・・・
この戦いは幕府軍が惨敗、新選組も鳥羽街道を淀城に向けて撤退を開始、そのルートを追って、にぽぽも桂川沿いをひたすら歩くことにしました。
まずは腹ごしらえです!腹が減っては戦はできないのです!!

魚三楼さんの近くの町屋つくりのお店でいただきました。
江戸っ子のにぽぽには醤油がたりねぇ・・・と思えましたが、それはそれで、しっかりと京の味を堪能いたしました♪
席に通していただくまでの間に待合席から通りを一枚

暗い町屋に潜んで通りの様子をさぐる隊士のつもりになってみました。
午後の行程は次回に続きます〜(またかっ!)。
本日の日記に出てきた小説はこちらです。
最後まで読んでくれてどうもありがとう~~~ヾ(^∇^)
日本ブログ村へはこちらです⇒にほんブログ村
人気ブログランキングへはこちらです⇒人気ブログランキングへ

ども にぽぽ です=*^-^*=
薫風の素足かがやく女かな (日野草白)
風薫らなかったですよねぇ!今年の5月はっo(*≧д≦)o″))
サンダルも、靴箱の中に準備済みだったのに、結局にぽぽの足元はまだ夏をむかえていませんよ!
このまま梅雨に突入でしょうか?
レインシューズを買おうかな( ̄~ ̄;)
悩み中のにぽぽです。
さて、引っ張っております京都旅行も、ようやく最終日の3日目です。
この日は18:00の新幹線で東京に向うまで、新撰組の落日として、鳥羽・伏見の戦いを歩きました。
新選組が京に上って5年目に入った慶応3年(1867)は、政局が一気に変動した年でした。
入京した当初は、幕府要職につく会津と薩摩が手を結び、過激に攘夷決行の構えの長州を、禁門の変等で排除していましたが、この頃は逆に、薩摩と長州が手を結び、一気に尊王倒幕に傾いていったのです。
これに伴って、新選組も坂道をころがるように落日への道をたどっていきました。
2008年3月8日 京都/

にぽぽは8時にビジネスホテルをチェックアウト、おなじみになった堀川通りを南へ。
再びの西本願寺

元治2年(1865)年3月10日に壬生から移り、太鼓楼と後ろに写っている現参拝会館あたりに建っていた北集会所を屯所として使っていました。

新選組の所帯が大きくなり、慶応3年(1867)6月10日には新選組が幕府直参に取り立てられ、まさに最盛期を2年間過ごした場所でした。
ここから二条城や黒谷に意気揚々と出かけていく、近藤局長や土方副長の晴れがましい姿、肩で風を切りながら市中見回りに出かけて行く隊士達の姿が想像できるようでした。
西本願寺の参道

仏具のお店が集って、独特な風情でした。昔からずーっと同じお店なのでしょうね。
同年6月15日、新選組は不動村(現リーガロイヤルホテルの辺り)に屯所を移します。新選組の手荒な振る舞いに耐えられなかった西本願寺が、お金を出し新しく建ててくれた(建てさせた?)ものだったそうですが、大名屋敷のような立派なものだったそうです。
不動村の名の元になったお不動様

不動村屯所を偲ばせるものはなにもなく、リーガロイヤルホテルのあたりに碑が建っているだけです。これがまた、“新選組なんぞという逆賊の縁の建物なんか残しておくな!”というように感じられて、なんともせつない気持ちがします。
西本願寺の北集会所も不動村の屯所も姫路にある本徳寺に移されて、表書院と本堂として使われているとの事なので、いつか見に行きたいなと思っています。
せっかく直参に取り立てられ、近藤局長と土方副長の思いが遂げられたところなのに、二人の思いと反対の方向に時代は動き出します。
同年、10月14日には徳川慶喜が二条城で大政奉還 ・・・
11月18日、新選組と袂を分かち、御陵衛士となっていた伊藤甲子太郎が近藤勇の妾宅に招かれた帰りに新選組に斬られます。油小路の変です。
伊藤甲子太郎が大石鍬次郎らに襲撃された油小路の路地

伊藤甲子太郎絶命の場所、本光寺

油小路から堀川通を見る
道路右側の一番手前(見切れてしまった)ベージュっぽい建物が安寧小学校、近藤局長の醒ヶ井の妾宅はこの辺りにあったらしいです。一番奥の茶系のビルが、リーガロイヤルホテルで新選組の屯所があった辺り、伊藤甲子太郎が斬られた場所はほんの50mも離れていない。小説を読んだときには、結構歩いてから斬られたのかと思ってましたが、妾宅から出てすぐに!斬られたのだなという印象でした。
12月9日には朝廷が王政復古の宣言をし、12月16日には徳川慶喜が京都を出て大阪に引くことを決め、新選組も不動村屯所をたたみ、京都へは二度と戻れない戦いの旅に出ることとなります 。
せつない・・・・
直参取立てという心躍る出来事から、伏見行きまでの展開の速さを、どう理解できたでしょうか。
♪もぉ〜すこしぃ時がぁ 緩やかでぇああぁったならぁぁぁ〜♪・・・ってこれは白虎隊か。(昭和ですいません。解らないヤングゥのみなさんはスルーしてください。)
にぽぽも京都からタクシーで伏見方面に向いました。
にぽぽ 「えーと、墨染の駅の近くの藤森神社へお願いします」
運転手さん 「お参りに行きますの?」
に 「(説明がめんどうで)まぁ、そんなもんです」
運 「勝負事なんかしますのん?」
に 「は?」
運 「藤森神社っていったら勝ち馬に乗るっていってな、勝負事の神さんや」
に 「へ・・・へ〜 そうなんですかぁ」
禁門の変のときに新選組が布陣した九条河原、竹田街道に入って、武田観柳斎が斉藤一さんに斬られた(らしい)銭取橋がタクシーの窓の外、次々に過ぎていきます。
新選組隊士達も伏見に向いながら、ここではあの事件が、あそこではこんな斬り合いが・・・と、それぞれ思い起こしたりしたんでしょうか・・・・。
藤森神社

新選組が伏見に入ってからの事。近藤局長が二条城への用向きの帰りに、御陵衛士の残党に鉄砲で狙撃された場所。実際は藤森神社から丹波筋交いまでのどこかで場所までは特定されていないらしいので、とりあえずにぽぽは藤森神社へ寄りました。
勝負事の神様の辺りで撃たれてしまった近藤局長、これからの未来の暗示だったのでしょうか・・・
肩を打たれた近藤局長は、新選組が布陣している伏見奉行所まで馬で逃げるのですが、後で地図を確認したところその距離約4kmぐらい、馬の早駆け時速25kmぐらいと考えて、約20分〜30分を意識朦朧な状態で馬に乗っていたのですね。
次に向ったのは近鉄桃山御陵前駅のすぐ近く、御香宮
慶応4(1868)1月3日、戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)勃発。
伏見奉行所の最前線に布陣していた新選組と戦った薩摩軍が布陣していた場所です。
伏見奉行所(址)

この2箇所の陣、直線距離にしたら200mぐらいしかなさそうです、現代人のにぽぽの感覚だと、体育祭の男子棒倒しぐらいの距離感です。しかも、御香宮の方が伏見奉行所より約20mぐらい高台になっている。
この距離で大砲の弾が飛んでくるんですもんねぇΣ(|||▽||| )
小説『歳三 往きてまた』の中でも、土方副長が戦を前に隊士達に灘の酒を差し入れ、
自分は
>他になにもすることがなかったので、敵の様子をそのまま観察した。
>(あんな高台から撃ってこられたら)
>背後の奉行所の建物を振り仰ぐ。
>(ひとたまりもねぇ)
>幕府方一万五千、対する新政府軍は五千足らず。圧倒的な数の差は、しかしこの段
階では幕軍の知るところではない。敵の数は見えない。地理的不利がありありと誰の
目にみても明らかだ。
>(不利だな)
>と土方は思った。
とあるのですが、まさにその通りでした。にぽぽでさえ、不利だな〜と思いましたよ!!
薩摩軍が御香宮に布陣したときに、どうして手を打たなかったんでしょうねぇ。
歴史に“もしも”は無いにしても、ゆるすぎですよ、幕府軍たらっ!
こちらは当時、薩摩軍の料理方を担った、魚三楼さん

今も営業中。
その戸口には当時の弾痕がくっきり残っています。

伏見戦はまさに市街戦だったのですね。危ないったら・・・
この戦いは幕府軍が惨敗、新選組も鳥羽街道を淀城に向けて撤退を開始、そのルートを追って、にぽぽも桂川沿いをひたすら歩くことにしました。
まずは腹ごしらえです!腹が減っては戦はできないのです!!

魚三楼さんの近くの町屋つくりのお店でいただきました。
江戸っ子のにぽぽには醤油がたりねぇ・・・と思えましたが、それはそれで、しっかりと京の味を堪能いたしました♪
席に通していただくまでの間に待合席から通りを一枚

暗い町屋に潜んで通りの様子をさぐる隊士のつもりになってみました。
午後の行程は次回に続きます〜(またかっ!)。
本日の日記に出てきた小説はこちらです。
![]() | 歳三往きてまた (文春文庫 あ 44-1) (2007/04) 秋山 香乃 商品詳細を見る |
最後まで読んでくれてどうもありがとう~~~ヾ(^∇^)
日本ブログ村へはこちらです⇒にほんブログ村
人気ブログランキングへはこちらです⇒人気ブログランキングへ









