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寒中お見舞い申し上げます

ども にぽぽ です=*^-^*=




ブログ休眠状態にあるよな体になっておりますが、皆さまお元気でしょうか~?



昨年12月12日に父が永眠いたしまして、慌ただしい年末を過ごしておりました。

昨年の3月に、「もって、あと2週間」とお医者様に宣告され、
その間3月に地震があり、5月に母方の祖母が亡くなりと、いろいろなことがあった1年でした。



一方、新しい出会いもあり、
2011年はにぽぽにとって、別れと出会いの年でありました。



今年は、ブログ上で出会った方、リアルに出会った方とご縁を深めながら、
さらにもっともっと、新しい出会いがありそうな気がしています。




気分一新!
ブログも取り組んでいこうと思います。
大阪のお散歩も途中で、まだ東京に帰ってきてないしっ(><)




今年も、どうぞよろしくお願いしますヾ(^∇^)
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大阪 市中見回り! その2

ども にぽぽ です=*^-^*=





えらい間があいてしまいましたが、大阪市中見回り((2011年11月8日の日記⇒大阪 市中見回り! その1 )の続きであります。




御公儀橋であった高麗橋を渡ってすぐの一帯は、豪商の建ち並ぶエリアでした。
ここから先は、妄想力フル稼働でのお散歩です。

201110大阪25



江戸時代の景色はこんなだったかも。

201111大阪63
(住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館)



橋のすぐそばには、岩城升屋という呉服屋があり、西隣にあった三井越後屋とともに、大阪を代表する呉服屋さんだったのですが、この店は山南さんが不逞浪士を打ち取った際に佩刀“赤心沖光”を折ったといわれているところ。

201110大阪26

岩城升屋さんは明治19年ごろまでに閉店してしまったとのことで、現在はまったく違う会社のビルが建っていて、その頃の面影はなし、ビルの入り口にあったライオンの像(なぜライオン?)を撮ってみました(笑)。



この通りを右に曲がった先にある大阪市立開平小学校のところには、両替商の平野屋さんがありました。

201110大阪28

文久3(1863)年4月2日、土方さんたちが京についたばかりでまだ壬生浪士と名乗っていた頃に、平野屋さんで百両を借用し、これを元に浅葱色の“あの隊服”を作ったのでした。

平野屋さんに出向いたのは、近藤・芹沢・新見・土方・沖田・永倉・野口の7名。

その際の借用証書とともに、添え書きを残しておりました。


『 尽忠報国と表を錺(かざ)り、天下浪人と申し偽り、向後金子無心申し入れ候者これある(に)おいては、拙者どもの旅宿へ一応談判(に)及ぶべきよう挨拶致すべく、然るうえは同者の内罷り出で、きっと埒明け申すべく候もの也。

京都壬生役
浪士
新見 錦
近藤 勇
芹沢 鴨

亥四月

大阪 平野屋五兵衛殿 』

今後、尽忠報国といつわって、金策を申し入れる者がいたら、自分たちが出向いて解決してあげますよということなのですが、近藤さんたちこそ、金策申し入れる者だった訳なんですけどね(笑)。



     201110大阪29

平野屋さんの当主は五兵衛さん、お隣の両替商の天王寺屋さんの当主も五兵衛さんだったので、このあたりは
「天五に平五、十兵衛横町」 (5+5で10ってことね)
と、呼ばれたそうです。

天五も平五も、大名達にたくさんお金を貸していたのですが、明治維新後の廃藩置県で大名への貸付が帳消しにされたことがもとで、倒産してしまったようです。




平野屋さん後から西へすこし歩くと、大阪両替商の総代ともいうべき、鴻池本宅跡があります。

201110大阪32

現在は、大阪美術倶楽部。

201110大阪31

鴻池にも、文久3年7月にお金を借りに行っています。
その額は、二百両。

山南さんが刀を折ったのは、岩城升屋ではなくて、鴻池が浪士に襲われているところを助けたためであったとか、そのお礼に近藤さんが“虎徹”をもらったのだとか、大阪でのエピソードはいまいちあやふやです。


鴻池も、明治になり大名家への貸付を帳消しにされましたが、資本の差でありましょうか、その後も“鴻池銀行”→“三和”→“UFJ”となって現代に続いているのはご承知のとおりで、本宅跡のすぐ近くにはUFJ関連の会社がありました。

     201110大阪34

この辺りの土地は、昔からほとんどが鴻池のものだったのでしょうね。


この付近、現在は味もそっけもないオフィス街ですが、なぜか銀行や証券会社が多いのは、両替商が建ち並んでいた江戸の頃の名残なのでしょうか?

     201110大阪30




ここを抜けると、淀屋橋。

201110大阪45


淀屋橋を渡って、

201110大阪46

左に見える建物は、日本銀行大阪支店。



さらに次に架かるのは大江橋。

201110大阪47


淀屋橋と大江橋の間に挟まっている、日本銀行大阪支店があるエリアが中之島。
江戸時代には、多くの藩の蔵屋敷が建ち並んでいたところです。
蔵屋敷とは、大名が知行地からの徴収物を売りさばき、上方でのみ入手しうる必需物資を購入し、財政資金を調達していた、営業所とでもいうところでしょうか。

浅田次郎著『壬生義士伝』で、主人公の吉村貫一郎が、鳥羽伏見の戦いからはずれ、血だらけで南部藩の蔵屋敷にたどり着くシーンがありましたが、それがこの辺りなのですね。



また話がづれてしまいましたが、

201110大阪48

大江橋を渡り、しばらくまっすぐに歩いていきますと、

     201110大阪49

滋賀銀行の建物の角に、

     201110大阪50

“しじみばし”という欄干。


現在、川はありませんが、江戸時代はここに蜆川が流れていたのです。

     201110大阪51


この通りが、蜆川だったところでしょうか?

201110大阪52


文久3(1863)年6月2日、浪士捕縛のため下阪していた壬生浪士一行は、3日早朝に仕事を終え、舟遊びをしていたときに、この蜆橋のあたりで大阪力士と衝突して乱闘事件を引き起こしました。

そのメンバーはというと、芹沢・山南・沖田・永倉・斎藤・島田・平山・野口の8名。
この時、力士一人を死亡させてしまいました。
まだ会津藩の預かりとなったばかり、不埒な行いはまずいということで、力士側から因縁をふっかけられてやむを得ずの正当防衛であるとして、近藤さんが東町奉行所に事件を届け出ました(笑)。

大阪には、新選組になる前、必ず事を成そうと期待と不安を抱きながら過ごしていた頃の土方さんたちの足跡が残っていて、歩いていて、なんとなく甘酸っぱいです。




今回の旅の終わりは、

201110大阪53

天保山。



201110大阪54

大観覧車あり水族館ありのスポットですが、江戸時代も、松や桜の木が植えられ茶店なども置かれている、行楽地でありました。

     浪速百景天保山



文久4年(1864)年1月、江戸から船で天保山に着き、上方入りする徳川14代将軍家茂を、新選組はこの場所で出迎えて、警護の任に就きました。

201110大阪56



その後新選組として栄華を極め、そして時代に見放された慶応4(1868)年。

鳥羽・伏見の戦いに敗れ、1月9日には永倉さんが、翌日10日には近藤さん、土方さんらが、船に乗り江戸へ向い、二度と新選組として京・大坂の地を踏むことはなかったのでした。

201110大阪57


にぽぽもここを大阪での最後の後にして、東京へ。
土方さん達が船で5日をかけた江戸までの道のりは、今、新幹線で約3時間半です。



その前にエネルギー補給をば。

天保山マーケットプレースの中のフードコートには、“なにわ食いしんぼ横町”などがあり、オモロ美味しそうな雰囲気です。

     201110大阪59


が、

201110大阪60


朝ごはんも昼ごはんも食べていなかったので、腹へりまくり。
いろいろ物色する余裕もなく、一番角にあったお店でとりあえず注文したのは、

“イカ焼き”と”串揚げセット”

201110大阪61



せっかく大阪に来たのにフードコートかいな・・・と思ったものの、これが結構美味しくてビックリ。

201110大阪62

特に、東京では見かけない“イカ焼き”はジャンクだけどモチモチして美味しかったな~♪
(東京でのイカ焼きは、イカ丸ごと炭焼きにして、醤油をつけたものですよね?)



この日、18:00に六本木で約束があったので、駆け足となってしまったのですが、歩けてよかった大阪新選組散歩!でありました(^^




大阪市中見回り20111008
(地図はクリックしてフル画面にしていただくと、大きくなると思います。)



今日も最後まで読んでくれて、どうもありがとう~~~ヾ(^∇^)
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本日 1月1日 元旦

ども にぽぽ です=*^-^*=




本日 1月1日♪


江戸時代の正月風景
文化3(1808)年のお正月風景/『諸国図会年中行事大成』より
(クリックするとちょっと大きくなります)



とうとうボケちゃった・・・・訳ではありません。


お江戸を愛し、お江戸のカケラを追いかけるにぽぽにとって、以前からムズムズと気になっていた、江戸時代と現代の季節の相違。



冬真っ最中だというのに、年賀状には「新春」「迎春」と書き、桃の花も咲かない“ももの節句”。
菖蒲にはまだ早い“端午の節句”には、無理やり菖蒲湯に入り、“七夕”は梅雨真っ盛りの時期で、1年どころか何年も会えない織り姫と彦星・・・(涙)

江戸時代に使われていた暦は、旧暦なので、今の暦に当てはめるとおかしなことになってしまうのですね。




そこで!
本日は、旧暦のことについて、うざったく語ってみたいと思います。
(日記4年目にして、“お江戸うんちく”カテゴリーに記事が1つしか入っていないことにも気づいた 汗っ)



現在使われている新暦(太陽暦)は、地球が太陽の周りを回る周期を元にして作られている暦です。
対して、江戸時代に使われていた旧暦(太陰太陽暦)は、1ヵ月は月の満ち欠けの周期にしつつ、1年の長さは太陽で見るというものでした。


どういうことかというと、
月の周期の約29日半なので、30日の“大の月”と29日の“小の月”を設けて1年にする。
すると、1年は354日となり、新暦の1年に比べて11日ほど短くなります。
このズレが3年で1ヶ月分になるので、約3年に一度、余分な1ヶ月を閏月として挿入してズレを解消したのです。(江戸時代に使われていた暦も、天保14年まで使われていた寛政暦と天保15年以降の天保暦がありますが、以下ここで書く旧暦は“天保暦”のこととします。)



さらなる問題は、1年が12ヶ月の年と13ヶ月の年ができてしまい、季節がずれてしまうので、太陽の軌道を24等分して求めた二十四節気を用います。
今のカレンダーにも「大寒」とか「春分」とか記載されていますよね、アレです、アレ。


     二十四節季
(クリックすると大きくなると思います。)



1太陽年を春分点(黄経0度)を基点として24等分して導き出された節季を、黄経上の特定の度を太陽が通過する日に節季と中気を交互に配置していく方法で、黄経330度の“雨水”を含む月を1月とし、以下中気を含む月を2月、3月としていくのです。
(黄経は太陽の位置を示す座標と思っていただければいいかと。)
中気をまったく含まない月は閏月となります。
閏月は、その時によって、5月だったり、7月だったりいろいろでした。
ちなみに、今年2012年は、3月の後に閏3月があります。


しかも、今年の1月は“大の月(30日設定)”でも、来年の1月は“小の月(29日)”になったりしちゃって今年の今日は来年のいつになっているのかわからない。
あるいは無いかもしれず・・・うーん、複雑すぎる。




めちゃくちゃ複雑な暦は、“幕府天文方”で作られていました。
今でいう“国立天文台です。


“鳥越の不二”

     鳥越の不二
葛飾北斎の『富獄百景』より


この目盛のついた丸い“渾天儀(こんてんぎ)”というものが子午線や天の赤道や黄道などの観測器だったのです。
天文台は、現在の浅草橋のあたりにあったそうなので、今度お散歩して来なくちゃ~♪



江戸時代の人たちも、暦が売り出されるまで次の年の日にちがわからなかったそうで、11月頃に“こよみ売りが町を回ればあっちでもこっちでも、「どうなってる?」「どうなってる?」と大騒ぎだったらしいです。



こんな状態なので、毎年同じ日に何かをするという“記念日”という発想もありません。
個人的にお誕生日を祝う・・・なんていうこともありませんでした。
お正月を迎えるとみーんないっせいに一つ年を取ることになったので、例えば12月31日に生まれた赤ちゃんは、生まれたその日が1歳で、翌日には2歳になってしまう訳です。
今でも七五三や厄年で使われている“数え年”ですね。




2012誕生日1

“誠”のケーキで祝ってもらった、にぽぽ2012年の誕生会。

2012誕生日2

そして、にぽぽはハゲヅラだった(爆)

2012誕生日3
お祝いしてくれたみんな、芋侍の店長、皆様、ありがとー!
後日(2015年)追記:芋侍は2012年4月28日に閉店しました。


年の数え方はお江戸じゃなくてよかったわ(^^。



今年は、旧暦で日記をつけてみようと思いつきました♪
明治5年11月9日(新暦でいうと1872年12月9日)、突如として来年から新暦だからねーと天皇の勅書が出たために、この年の12月は2日しかなく、大混乱となったそうです。

にぽぽの、行き当たりばったりの思いつき旧暦日記も、大混乱となるかも・・・・
いや、大混乱になるに違いない(汗っ)




どうなることやら、お楽しみに(^▽^)/”
今日も最後まで読んでくれて、どうもありがとう~~~ヾ(^∇^)
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芝 増上寺 徳川家霊廟

注)本日のお散歩は、お墓画像が出てまいります。
そういうのはちょっと・・・という方は本日ここまで、また違う日記の時に来てくださいね!



ども にぽぽ です=*^-^*=



こちら、江戸時代の増上寺三門前です。

     名所江戸百景/芝神明増上寺
安藤広重『名所江戸百景』 芝神明増上寺


そして、同じようなアングルで、現在の増上寺前。

     2012増上寺1


と、いうことで、本日は徳川将軍家菩提寺の増上寺にやって来ております。
勤務地のそばなので、過去も幾度か日記に登場しましたが、徳川将軍家の菩提寺としてご紹介するのは、初めてかも。



徳川家菩提寺となった経緯は、家康が江戸入府の折、増上寺の前で住職源誉存応上人にたまたま出会ったことがきっかけになった・・・というのが通説のようです。
ちなみに、源誉存応上人は武蔵国多摩郡由木(←現東京都八王子市)の出身ということで、あら!にぽぽと同郷じゃないのっ(喜)!



家康は、葬儀を増上寺で執り行うようにと遺言を残しましたし、
5代将軍綱吉の頃には、浅野内匠頭が

「二百畳もの畳替えを朝までになど・・・おのれ吉良め、またしても・・・」

くっと泣き崩れ、家臣達が

「とのっ!われらにお命じください、朝までに成し遂げよとっ。われら命に代えても必ずや、とのーっ!」

ってことになる、にぽぽの大好きな“忠臣蔵”の名場面、畳替えの舞台もここであります。
(また、話がそれている・・・)




2012増上寺2


ところで、昨年のNHK大河ドラマは、徳川2代将軍の、御台所(正室)“お江”でありました。
歴史好き視聴者からは、「ファンタジーかっ(怒)!」と大不評だったらしい・・・にぽぽもまったく食指が伸びず、一回も見ないで終わったのですが。

何をしたいのか、どうしたいのか、さまよい続けるNHK大河ドラマ部。
もっと骨太な歴史ものをみせてくれよーっ!

ドラマの出来はさておき、大河ドラマに取り上げられるとその人物にスポットライトが当たり、縁の地で、いろいろと特別企画が催されるのは嬉しい限り♪


お江が眠る増上寺でも昨年は“徳川将軍家の霊廟”を特別公開(2012.1.31まで)していたのでした。

     2012増上寺3




東日本最大級という増上寺の三門、三解脱門をくぐります。

2012増上寺4



徳川家の菩提寺であるとともに、僧侶の養成所である檀林がおかれ、隆盛を誇った増上寺。

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どーんと威厳のある本堂に広~い境内でありますが、江戸時代は現在の数倍あり本堂を中心に70余棟の建物があったそうです。



2012増上寺7

本堂の南側(東京プリンスパークタワーの辺り)に2代将軍秀忠の霊廟を中心として6代将軍家宣の父・徳川綱重霊廟などがありました。
そして、北側(東京プリンスホテルの辺り)には、6代将軍家宣・7代将軍家継・9代将軍家重・12代将軍家慶・14代将軍家茂の霊廟がありました。



その美しさは永井荷風をして、

「自分の目の前に広がっている世界はあまりにも荘重美麗である。
自分はただ断片的なる感想を断片的に記述する事を以って足れりとせねばならぬ。」
霊廟/永井荷風随筆集(岩波文庫)から

と、言わしめるほどでしたが、昭和20(1945)年3月9日の東京大空襲によって、ほとんどが灰燼に帰してしまいました。



戦後は宝塔や燈篭が雑草に覆われたまま、打ち捨てられた姿となっていたようですが、昭和33(1958)年に敷地売却が決まり、発掘調査と改葬が行われました。
6人の将軍たちは現在、本堂右手奥の塀に囲まれた一角に、ひっそりと眠っていらっしゃいます。

幕末の頃の霊廟の写真は長崎大学付属図書館、長崎学デジタルアーカイブズ( ⇒HP )で見ることが出来ます!
検索は“撮影対象から探す⇒信仰⇒増上寺”


2012増上寺8

現在の霊廟入り口の鋳抜門は、6代将軍家宣の宝塔の直前にあった門だそうです。
青銅製のため、戦災で焼け残りました。


門の横からお邪魔します・・・・

2012増上寺9



中央に大きな玉砂利を配した方形のスペースに、整然と宝塔が並べられております。

2012増上寺10



霊廟内は、このように配置されております。

霊廟内配置図
(クリックしてフル画面にすると見やすくなると思います。)



こちらが2代将軍秀忠とその御台所お江の宝塔。

2012増上寺11

そもそもは将軍、御台所それぞれの宝塔があり、宝塔の下の石室のようなスペースに数々の埋葬品と共に埋葬されていましたが、調査・改葬された後、ご遺体は桐ケ谷斎場で火葬され(!!)、現在はお骨のみとなって、将軍と御台所をいっしょに埋葬したということでした。

昭和33年の調査については、いろいろな成果とともに、技術も未熟だったこともあり不備もたくさんあったことを何かで読んだ記憶がありましたが、火葬したとは知らなくて、にぽぽとしては結構ショックを受けました。

だってーーー、当時は土葬だったので、改葬するにしてもそのまま埋めれば、未来になって調べられることもあったかもしれません、それなのに、焼いてしまったらねぇ・・・・。
しかも、すでに何百年もたっているのに、改めて熱い思いをさせることもないような・・・気の毒というかなんというか。


あ、ちなみに、お江だけは将軍家で唯一火葬されております。
それはなぜだったのかというのも、さまざまな憶測とともに語られておりますので、このお話はまたいずれ、うっとおしく語りたいと思います。



宝塔を右回りに、7代将軍家継です。

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わずか4歳で将軍に就き、7歳で亡くなりました。
江島生島事件が起こった時の将軍です。



9代将軍家重。

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“暴れん坊将軍”吉宗の長男であります。
言語不明瞭であったという記述や、残されているさまざまなエピソードから、脳性麻痺だったのではないかと推測されております。
発掘調査の際の顔面復元では将軍たちの中で一番顔立ちの整った美男であったとのことです。



12代将軍家慶。

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11代将軍家斉が壮健だったため、将軍となったのは45歳の時でした。
浦賀に黒船がやってきて、幕府が対応に追われている最中に亡くなりました。暑気あたりだったようです。



正面にもどって、6代将軍家宣。

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“犬公方”と呼ばれた綱吉の後継です。
綱吉が「後々まで残せ」と遺言した“生類憐みの令”をさっさと廃止したりして、庶民にはなかなか人気であり、賄賂や不正も厳しく取り締まるなど、名君の誉れ高き将軍でありました。



14代将軍家茂。

2012増上寺16

我らが新選組が仕えたのはこの14代将軍であります。
わずか13歳で将軍に就き、開幕以来の危機的な時代を治める運命となりました。
京の動乱を鎮めるべく赴いていた大阪城で薨去。享年21歳(満20歳)でした。



14代将軍御台所 和宮。

2012増上寺17

仁孝天皇の第八皇女として生まれ、朝廷と徳川幕府の関係を修復し国論の統一を図る“公武合体策”の一環として、14代将軍家茂の御台所として降嫁しました。
日本史を通じて、皇女が武家に降嫁し、関東下向した、唯一の例であります。


和宮については、語りたいことがたくさんあるので、これもいずれ、暑苦しく語りたいと思いますが、和宮が薨去したのは明治10(1877)年で徳川幕府瓦解後のため、増上寺には宮内庁により埋葬されたとのこと。

そして、昭和の改葬の際にも、皇女という地位のため、他の御台所のように将軍といっしょにされることなく、個々の宝塔のまま残されました
徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲が良かった二人だったのに、なんとなく可哀想だなと思ってしまいます。



可哀想・・・といえば、もう一度秀忠とお江の宝塔を見ていただきたいのですが、

2012増上寺11

他の将軍の宝塔と形が違うでしょ。
これ、実はお江の宝塔に秀忠が入っているので、御台所サイズの宝塔なのです。

恐妻家でお江の尻に敷かれていたと語られている秀忠、ここにきてまでもか・・・と同情を禁じ得ないです。


本来はこのような立派な拝殿(本殿の写真だったかな?メモしてくるのを忘れてしまった。)が建てられており、

2012増上寺22


その中に納められた秀忠の宝塔は、だれのものより美しかったのですが、

2012増上寺21

木造だったため、戦火に焼けてしまったのでした。



最後は合祀塔。

2012増上寺18

将軍となる後継ぎを生んだ側室、将軍の子どもたちを埋葬しています。


戦前までは、ちゃんと一人一人、宝塔ではないにしろ墓石が設けられていたのですが、なんとなく雑というか情緒の無い扱い。
戦後高度成長期の余裕のなさだったのか、土地のスペースの問題だったのか、いろいろ検討してこうなったのでしょうが、死してなお、正室と側室の差を生々しく見せられているよう。
側室の立場に思いを寄せると、ちょっと悲しい。



徳川将軍家霊廟は、そんなに広いスペースではないのですが、過ぎた歴史の重みとか、文化財の保護の仕方とか、なんだかいろいろ考えさせられることが多いです。
特別公開は終わりますが、毎年何日かは公開日が設けられるそうですので、興味のある方はぜひ行かれるといいと思います。
きっと、いろいろなことを感じること、間違いなしです。



いやー、すごい字が多い!
ここまでたどり着いてくださった方、お疲れ様でした。

にぽぽも疲れました、お腹もすきました。




浜松町といえば、いつもの蕎麦屋“芝大門更科布屋”。

2012増上寺23

創業寛政3(1791)年は、11代将軍家斉の時です。



寒かったけどあえて天せいろ~。

2012増上寺24

熱燗を頼もうと思ってたのに、お昼時だったので食事のみだった、残念。




ほんとに、字が多いわ、長いわ、スミマセン(汗)
今日も最後まで読んでくれて、どうもありがとう~~~ヾ(^∇^)
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東京の西のはじっこに住んでいます。
お散歩したり、まったりしたり、美味しいもの食べて喜んだり。

2010年 江戸文化歴史検定3級・2級合格。
2014年 新選組検定3級・2級合格。
たまに歴史と新選組のオタク日記になります。

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