2008年5月31日 東京/  ども にぽぽ です=*^-^*= 薫風の素足かがやく女かな (日野草白) 風薫らなかったですよねぇ!今年の5月はっo(*≧д≦)o″)) サンダルも、靴箱の中に準備済みだったのに、結局にぽぽの足元はまだ夏をむかえていませんよ! このまま梅雨に突入でしょうか? レインシューズを買おうかな( ̄~ ̄;) 悩み中のにぽぽです。 さて、引っ張っております京都旅行も、ようやく最終日の3日目です。 この日は18:00の新幹線で東京に向うまで、新撰組の落日として、鳥羽・伏見の戦いを歩きました。 新選組が京に上って5年目に入った慶応3年(1867)は、政局が一気に変動した年でした。 入京した当初は、幕府要職につく会津と薩摩が手を結び、過激に攘夷決行の構えの長州を、禁門の変等で排除していましたが、この頃は逆に、薩摩と長州が手を結び、一気に尊王倒幕に傾いていったのです。 これに伴って、新選組も坂道をころがるように落日への道をたどっていきました。 2008年3月8日 京都/  にぽぽは8時にビジネスホテルをチェックアウト、おなじみになった堀川通りを南へ。 再びの西本願寺  元治2年(1865)年3月10日に壬生から移り、太鼓楼と後ろに写っている現参拝会館あたりに建っていた北集会所を屯所として使っていました。  新選組の所帯が大きくなり、慶応3年(1867)6月10日には新選組が幕府直参に取り立てられ、まさに最盛期を2年間過ごした場所でした。 ここから二条城や黒谷に意気揚々と出かけていく、近藤局長や土方副長の晴れがましい姿、肩で風を切りながら市中見回りに出かけて行く隊士達の姿が想像できるようでした。 西本願寺の参道  仏具のお店が集って、独特な風情でした。昔からずーっと同じお店なのでしょうね。 同年6月15日、新選組は不動村(現リーガロイヤルホテルの辺り)に屯所を移します。新選組の手荒な振る舞いに耐えられなかった西本願寺が、お金を出し新しく建ててくれた(建てさせた?)ものだったそうですが、大名屋敷のような立派なものだったそうです。 不動村の名の元になったお不動様  不動村屯所を偲ばせるものはなにもなく、リーガロイヤルホテルのあたりに碑が建っているだけです。これがまた、“新選組なんぞという逆賊の縁の建物なんか残しておくな!”というように感じられて、なんともせつない気持ちがします。 西本願寺の北集会所も不動村の屯所も姫路にある本徳寺に移されて、表書院と本堂として使われているとの事なので、いつか見に行きたいなと思っています。 せっかく直参に取り立てられ、近藤局長と土方副長の思いが遂げられたところなのに、二人の思いと反対の方向に時代は動き出します。 同年、10月14日には徳川慶喜が二条城で大政奉還 ・・・ 11月18日、新選組と袂を分かち、御陵衛士となっていた伊藤甲子太郎が近藤勇の妾宅に招かれた帰りに新選組に斬られます。油小路の変です。 伊藤甲子太郎が大石鍬次郎らに襲撃された油小路の路地  伊藤甲子太郎絶命の場所、本光寺  油小路から堀川通を見る 道路右側の一番手前(見切れてしまった)ベージュっぽい建物が安寧小学校、近藤局長の醒ヶ井の妾宅はこの辺りにあったらしいです。一番奥の茶系のビルが、リーガロイヤルホテルで新選組の屯所があった辺り、伊藤甲子太郎が斬られた場所はほんの50mも離れていない。小説を読んだときには、結構歩いてから斬られたのかと思ってましたが、妾宅から出てすぐに!斬られたのだなという印象でした。 12月9日には朝廷が王政復古の宣言をし、12月16日には徳川慶喜が京都を出て大阪に引くことを決め、新選組も不動村屯所をたたみ、京都へは二度と戻れない戦いの旅に出ることとなります 。 せつない・・・・ 直参取立てという心躍る出来事から、伏見行きまでの展開の速さを、どう理解できたでしょうか。 ♪もぉ〜すこしぃ時がぁ 緩やかでぇああぁったならぁぁぁ〜♪・・・ってこれは白虎隊か。(昭和ですいません。解らないヤングゥのみなさんはスルーしてください。) にぽぽも京都からタクシーで伏見方面に向いました。 にぽぽ 「えーと、墨染の駅の近くの藤森神社へお願いします」 運転手さん 「お参りに行きますの?」 に 「(説明がめんどうで)まぁ、そんなもんです」 運 「勝負事なんかしますのん?」 に 「は?」 運 「藤森神社っていったら勝ち馬に乗るっていってな、勝負事の神さんや」 に 「へ・・・へ〜 そうなんですかぁ」 禁門の変のときに新選組が布陣した九条河原、竹田街道に入って、武田観柳斎が斉藤一さんに斬られた(らしい)銭取橋がタクシーの窓の外、次々に過ぎていきます。 新選組隊士達も伏見に向いながら、ここではあの事件が、あそこではこんな斬り合いが・・・と、それぞれ思い起こしたりしたんでしょうか・・・・。 藤森神社  新選組が伏見に入ってからの事。近藤局長が二条城への用向きの帰りに、御陵衛士の残党に鉄砲で狙撃された場所。実際は藤森神社から丹波筋交いまでのどこかで場所までは特定されていないらしいので、とりあえずにぽぽは藤森神社へ寄りました。 勝負事の神様の辺りで撃たれてしまった近藤局長、これからの未来の暗示だったのでしょうか・・・ 肩を打たれた近藤局長は、新選組が布陣している伏見奉行所まで馬で逃げるのですが、後で地図を確認したところその距離約4kmぐらい、馬の早駆け時速25kmぐらいと考えて、約20分〜30分を意識朦朧な状態で馬に乗っていたのですね。 次に向ったのは近鉄桃山御陵前駅のすぐ近く、御香宮 慶応4(1868)1月3日、戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)勃発。 伏見奉行所の最前線に布陣していた新選組と戦った薩摩軍が布陣していた場所です。 伏見奉行所(址) この2箇所の陣、直線距離にしたら200mぐらいしかなさそうです、現代人のにぽぽの感覚だと、体育祭の男子棒倒しぐらいの距離感です。しかも、御香宮の方が伏見奉行所より約20mぐらい高台になっている。 この距離で大砲の弾が飛んでくるんですもんねぇΣ(|||▽||| ) 小説『歳三 往きてまた』の中でも、土方副長が戦を前に隊士達に灘の酒を差し入れ、 自分は >他になにもすることがなかったので、敵の様子をそのまま観察した。 >(あんな高台から撃ってこられたら) >背後の奉行所の建物を振り仰ぐ。 >(ひとたまりもねぇ) >幕府方一万五千、対する新政府軍は五千足らず。圧倒的な数の差は、しかしこの段 階では幕軍の知るところではない。敵の数は見えない。地理的不利がありありと誰の 目にみても明らかだ。 >(不利だな) >と土方は思った。 とあるのですが、まさにその通りでした。にぽぽでさえ、不利だな〜と思いましたよ!! 薩摩軍が御香宮に布陣したときに、どうして手を打たなかったんでしょうねぇ。 歴史に“もしも”は無いにしても、ゆるすぎですよ、幕府軍たらっ! こちらは当時、薩摩軍の料理方を担った、魚三楼さん  今も営業中。 その戸口には当時の弾痕がくっきり残っています。  伏見戦はまさに市街戦だったのですね。危ないったら・・・ この戦いは幕府軍が惨敗、新選組も鳥羽街道を淀城に向けて撤退を開始、そのルートを追って、にぽぽも桂川沿いをひたすら歩くことにしました。 まずは腹ごしらえです!腹が減っては戦はできないのです!!  魚三楼さんの近くの町屋つくりのお店でいただきました。 江戸っ子のにぽぽには醤油がたりねぇ・・・と思えましたが、それはそれで、しっかりと京の味を堪能いたしました♪ 席に通していただくまでの間に待合席から通りを一枚  暗い町屋に潜んで通りの様子をさぐる隊士のつもりになってみました。 午後の行程は次回に続きます〜(またかっ!)。 本日の日記に出てきた小説はこちらです。 最後まで読んでくれてどうもありがとう~~~ヾ(^∇^) 日本ブログ村へはこちらです⇒ にほんブログ村人気ブログランキングへはこちらです⇒ 人気ブログランキングへ
2008年5月27日 東京/  ども にぽぽ です=*^-^*= なんだかやっといいお天気で、気分爽やかな一日でした。 本日の日記で京都旅行二日目の行程を書き上げます! やっと? お付き合いの程よろしくお願いしますです。 東山エリアをくるりと回って八坂神社に戻ってきました。 八坂神社から四条通りを眺めたところの角にあるローソン  この場所に祇園会所がありました。 元治元年(1864)6月4日夕刻の祇園祭りの賑わいの中、長州の志士達に怪しまれないように、三々五々に壬生から集った場所です。新選組の名を広めることになる池田屋騒動です。 集った時点では、長州志士が集合している場所が特定できていない! 新撰組は隊士を近藤隊10名と土方隊24名に分け、三条から四条のあたり、木屋町を端から探索し 、とうとう池田屋に踏み込む事になります。 木屋町、先斗町辺りの路地  昔のスケール感が残っているかと思われます。 この狭い路地からいきなり刀が振り落とされたりしたんですね。 大変危険ヽ(ヽ ̄□ ̄))))) ヒイィィィ!!! 再びの三条大橋  この橋には池田屋騒動の時のものではないかと言われる刀傷があったりします。 橋のたもとの高札場跡  後の話ですが、慶応2年(1866)の夏には幕府の高札が墨で塗りつぶされ、鴨川に捨てられるという三条大橋制札事件が起こっています。このときは原田左之助さんが中心で取り締まりにあたり、土佐藩士が高札を引き抜くところを突きとめて一斉に斬りこんだのでした。 これらを過ぎるとすぐに池田屋跡  近藤隊は会合中の尊王攘夷派の志士を襲撃新しました。 パチンコ屋さんがあると思っていたのですが、現在は空きビルになっていました。 木屋町通りに沿っている高瀬川  木屋町の高瀬川沿いはもう事件、暗殺の跡だらけ。 佐久間象山遭難の地 幕末、時代はまさにここが中心に動いていた『現場』だったのだと感じられます。 土佐や彦根の藩邸も長州屋敷もこの一角にあり、坂本竜馬も桂小五郎もこの辺りにひそみ、時の風をしっかり体感している。 それに比べて京都守護職の会津は山のお寺に本陣を置いている。格式や重厚感はあるけど、 『事件は会議室で起こっているんじゃない!現場で起こっているんだ!(古い)』という空気感を読めなかった会津・・・ 戊辰戦争の行く末を暗示できる布陣だなぁ・・・なんて、今だから思えたりします。 しる幸  池田屋騒動の発端となった古高俊太郎の邸宅跡です。 土佐藩邸跡  蛸薬師通りの角にあります。 木屋町通りから蛸薬師通りを曲がって河原町通りにぶつかった辺り 当時の住所、京都河原町蛸薬師下ル西側  ここが坂本竜馬が暗殺された醤油商“近江屋”があったところ、土佐藩邸のすぐ近く。 今は河原町通りはバス通り、近江屋の辺りはにぎやかな商店街です。  祇園にまわり、一力亭  文久3年(1863)10月10日、入京して7ヶ月の近藤局長が会津藩の招きで、公武合体派の藩の集りに参加し、その後も足繁く通ったお茶屋さん。 にぽぽの市中見廻り、ミッションコンプリートです! 四条通りを新選組隊士は壬生の屯所へ帰ります。 にぽぽはビジネスホテルへ帰ります。 今の四条通りはヴィトンやアルマーニなどのブランド通り、当時も目抜き通りだったのだろうと想像します。  土方副長が姪っ子さんへのお土産の簪を買ったお店もあったのかもo(^-^)o ちなにみ・・・ この日の夕食はビジネスホテルでコンビニおにぎりとお惣菜でした(TmT)ウゥゥ・・・ 最後まで読んでくれてどうもありがとう~~~ヾ(^∇^) 日本ブログ村へ飛ぶ方はこちらへ⇒ にほんブログ村人気ブログランキングへ飛ぶ方はこちらへ⇒ 人気ブログランキングへ
2008年5月25日 東京/  →  ども にぽぽ です=*^-^*= 相変わらずお天気に恵まれない週末でした。これではお散歩にも出かける気になれないです・・・ 梅雨に入る前にスカっとお天気の休日を過ごしたいものですネ。 さて、3月6日現在の過去へ。 前回の八坂神社の続き、清水寺方面へ歩きます。 清水寺へ行くには円山公園から高台寺へ抜ける道を通るのがお薦めです。円山公園には いもぼうをはじめ、美味しそうなお店があります。次回お友達と旅行するときにはぜひ、お食事したいなo(*^▽^*)o 円山公園  文久3年8月7日から、円山公園内の祇園北林で相撲興行が催されました。同年6月に新選組が大阪に出張した際、力士達と乱闘になり、その和解の為の興行でした。当日新選組は黒紋付に白袴で警備に就いたそうです。 高台寺へ向う小道には京らしいかわいい雑貨もお店も沢山ありながら風情があって歩いていてとても楽しいです♪ わらび餅の名店“洛匠”がこちら  ぷるぷるの草わらび餅、楊枝からとろけ落ちまてしまいます  席からは季節を感じられる庭園が心もとけます(´〜`)  月真院  新撰組から分裂した伊藤甲子太郎さんを中心にして構成された“御陵衛士”の屯所がありました。 なんとも。インテリ伊藤さんが屯所に選びそうなたたずまいです。 高台寺というのは秀吉の正妻、ねねが秀吉の菩提を弔うために建立したお寺です。 月真院のすぐ隣、高台寺へ続く“ねねの道”です。  高台寺のあたり石畳風に舗装がしてあるし、京雑貨やガラス雑貨のかわいいお店もあって、女子が大好きなコースです。 二年坂  三年坂  つまずかないように気をつけて坂を歩きました。 清水寺  足がすくんでお尻がムズムズします ・・・ そういえばにぽぽ、高所恐怖症でした アワワワ((((゚ □ ゚ ) ゚ □ ゚))))アワワワ 舌切茶屋  幕末の頃、清水寺の北の奥にある成就院の住職月照さんとその弟が勤皇僧として活躍 。安政の大獄でだったか?月照さんは西郷隆盛さんと薩摩に逃れたのですが、追われる月照を守るために舌を噛み切り口をつぐんだ近藤正慎氏の妻子が出した茶屋だそうです。 西郷さんと月照さんが入水自殺を図って西郷さんだけ助かったという事が大河ドラマの原作『天璋院篤姫』に書いてあった気がするので、多分13代将軍の頃の話なのかも・・・あやふやですみませんっ もうひとつ、小説『新選組血風録』の中の“沖田総司の恋”の項で、総司くんと土方さんが清水寺に行き、お茶屋さんで休んでいるところに総司くんの思い人が通りすがるというくだりがあるのですが、 歩きながらそのシーンを思い出しました。実際に二人で清水寺に行ったという資料はないようですが 絶対来てるに決まってます!(笑) 茶わん坂から舞妓haaaaanが二人上ってきました!  本物だろうか? なんか観光客の変身ぽいけど・・・「(´へ`;ウーム 三年坂から降りてちょっと横道に入ってみました。 法観寺八坂の塔  ここはドラマとかでもよく出てくる景色!! なるほど、ここにあったのネ! 東山エリアをくるりと回って八坂神社に戻ってきました。 次の見廻りは祇園・木屋町ですが、本日はここまでで一休み♪ 本日の日記に登場した小説はこちらです♪ 最後まで読んでくれてどうもありがとう~~~ヾ(^∇^) 日本ブログ村へ飛ぶ方はこちらへ⇒ にほんブログ村人気ブログランキングへ飛ぶ方はこちらへ⇒ 人気ブログランキングへ
2008年5月20日 東京/  大雨!!→  ども にぽぽ です=*^-^*= 朝起きたら天気予報どおり、ものすんごい雨でした! 思わず『会社は休みだな』と悪魔が囁きましたヨ。ちゃんと出勤したけど( ̄、 ̄;) ホントに今年の5月はお天気にめぐまれず、お日様大好きなにぽぽとしては カビがはえてしまいそうです( ̄~ ̄;) さて、本日も過去にもどって、京都旅行の二日目の事を楽しく思い出したいと思います♪ お付き合いの程よろしくお願いします! 2008年3月7日 京都/  京都に入り二日目、気分は完全に新撰組隊士、 本日は市中見廻りの任務に就く為、朝8時から歩き始めました! 恥ずかしいぐらいの張り切りぶりです (;^◇^;)ゝ 堀川通りを北へ向かい5分ほど歩くと、見えてきました二条城  見学は9時からのなので、にぽぽはまず御所へ向います。 丸太町通りを東に入って しばらく真っ直ぐ行くと京都御所。 敷地が広い! いったいどこから入ればいいのだとさまよっていたら、案内板がありました♪  文久3年(1863)8月18日の政変で新撰組が警護した“建礼門”と、会津藩が守っていた“蛤御門”の位置を確認、歩きます、だだっぴろい御所敷地内を歩きます! ガイドブックには建礼門って書いてあるけど、新撰組が警護したのって御花畑とかいうんじゃなかったけか?などど新撰組初心者のにぽぽは疑問をもちながら、とにかく歩きます。 ・・・後で本を読んだら御花畑は公家邸宅の一角で、健礼門の前あたりだそうなのでイコールだとわかったのですが、何しろ初心者にぽぽにはあれ?と情報が一致しないことが多々あるのです(笑) 建礼門に到着  ここから蛤御門を見るとこんな景色です 空間の抜け具合がなんとも気持ちいいです! 蛤御門正面  当時の銃弾の跡が残っています。思った以上に生々しい・・・ 写真だとわかりずらいのですが、ちょうど人差し指の第一関節が入りそうな穴です。 二条城に戻ってきました。 大手門です  御所とちがい、武士の城っていう感じがします。大手門を入ったらすぐに番所があるところも、江戸城のつくりとそっくりです。  ちなみに番所の中には裃姿のお侍さんの人形がいてびっくりさせてくれます(笑) 唐門を入っていよいよ二の丸へ  二の丸を見学した後、庭園をぷらぷら  庭園がとっても美しいと感じるなんて、 齢をとった大人になったって事かな〜 (´〜`) 二条城からはちょっと楽して地下鉄で東山へ。 平安神宮に向って歩きます  この辺りには美術館もあるので、ギャラリーとか、こじゃれたお店が多いので、マダム及びオサレな女子にはお薦めかもしれません。 にぽぽは全く興味なく、平安神宮裏方面の金戒光明寺へ向います。 金戒光明寺は地元では“黒谷さん”と呼ばれています。 京都守護職に就いた会津の松平容保侯が本陣を置いたところです。 山門 山門から本堂への階段  階段を登りきり、本堂です!  幕末になくなった会津藩士のお墓も沢山あります。 近藤局長や土方副長らが容保侯謁見しに何度も通ったこの場所。 黒谷さんを見て、新撰組の屯所もこういう規模にするぜ!とか思ったかしら?で、西本願寺を選んだとか?いやいや、そんな事を書いてある本は全くですけどね。 このお寺とっても素晴らしかった ! 今回のお気に入りベストワンぐらいの勢いです(*'-^*)b 静謐な荘厳さといいますか、ぜひ一度行ってみていただきたいです。 空気が澄んでいて、体や心の毒が消滅していく感じがしましたヨ♪ すばらしいのに本堂には勝手に上がってよいという寛大さ、素敵 o(*^▽^*)o 本堂からは京都市内が一望できます  容保侯も、近藤局長、土方副長もここから京の市内を見ていろんな決意をしただろうと、 またもや妄想を膨らませてしまいました(笑) 八坂神社から高大寺、清水寺方面へ向うのですが、本日はここまで! おかげ様でランキング上がってきており、とっても励みになります!ありがとう\(*^▽^*)/ 続きを読む
ども にぽぽ です=*^-^*= 京都旅行1日目の後半でございます。 壬生寺境内でしばし妄想にふけってすっかり満足してしまったのか?うっかりと、新徳寺に寄るのを忘れてしまいました!な・・・なんとも(ヘ;_ _)ヘ ガクッ まぁしょうがない、次回行けばいいさ。うん。 と、気を取り直して島原へGO(*^▽^*)/ 江戸の吉原♪ 京の島原♪と言われたほどの花街、 芹沢鴨さんが暴れたり、新見さんが切腹したり、平隊士もお手当てがでればすっ飛んで行ったという島原は、いったいどのぐらいの距離だったのやらと思ったら八木邸のあたりから私の足で12〜3分でした。 花街の入口、“島原大門”  こちらは“輪違家” 『輪違家糸里』で上戸彩ちゃんが演じた糸里という芸者さんがいた置屋さん。 今にも「ほなおかあさん、いってきますぅ」(←東京人のあやしい京都弁「(´へ`; )  とかいって太夫が出てきそうな感じです! すぐ近くに“角屋”新選組がよーーーく利用した揚屋さん。  大きすぎてどうやってもフレームにおさまりませんでした。 立派できれいな建物です(´−`) ウットリ ちなみに置屋さんは芸者さんを置いているプロダクションのようなところ、揚屋さんは芸者さんを呼んで飲んだり食べたり泊まったりするところだそうです。 さて、夕暮れも近づいてきた時間なのでにぽぽの宿の方向に歩くことにしました。 といっても方向がよくわからないんだけど、七条通りまで出てそこをとりあえず東の方向へ歩くことにしました。 うーん、いいぞいいぞ、まさに京についたばかりの隊士の気分ではないか (まいごに興奮気味のにぽぽ) 七条通りを歩いていったら立派な壁に遭遇、西本願寺だった。 新選組第二の屯所ですものね、もちろん寄るべしです! 本堂、とにかく広い!  この広い境内でやっちゃいかんと言われたのにドカン!ドカン!大砲演習したり、豚さんを煮て食べちゃったりしたんですねぇ(笑) 本堂に上がってみました。ご自由におあがりくださいっですって、素晴らしい!  近藤局長や土方副長もここから境内を見渡して隊の演習を見ていたのかもしれないゾ! 屯所の建っていたあたりから太鼓楼を見上げます。  この太鼓楼はまさに新選組が屯所として使っていた当時のままの建物ですから 感慨ひとしおです。“o(><)o” にぽぽの京都の旅一日目が暮れていきます  にぽぽのリアル屯所の堀川四条のビジネスホテルへと歩くのでした ぽちぽちっと応援、どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m 続きを読む
ども にぽぽ です=*^-^*= 5月に入って雨ばかり・・・うつうつしちゃいますね 前回の日記に『この春京都に行った』と書きましたが、本日は少々過去にさかのぼり その時の事を書きたいナと思っております、歴史の散歩といいながら新選組ネタばっかり(笑) 2008年3月6日 京都/  去年の夏に突然、新選組にはまり、 いろいろ小説なり歴史書を読み漁っている訳ですが、 どうも京都の地理がわからない、 祇園と二条城って歩いたらどのぐらい? 距離感をわかりたい 空気を感じたーーーーーーーい “o(><)o” と、いう事でとうとう京都に行った訳なのでした。 しかも 初めての一人旅 o(^-^)o ワクワクッ こちらの本をもって歩いてきました〜 新選組ゆかりの場所の写真も沢山載ってるし、場所、場所の解説も盛りだくさん、ルート案内も詳細なのでにぽぽのような新選組初心者が京都を歩くのにはとても参考になりました♪ 読み物としてもグゥです('ー^*) b ただし・・・電車やバスなどの乗り物案内はないので、それは別に把握しておくべきだった・・・・と後に思いましたが(;^_^A さて! 京都旅行の始まりは絶対に『三条大橋』でなければなりません、ねばらないのです!  文久3(1863)年2月8日 江戸を出発した浪士組約300人は 中山道68次533kmを踏破して、2月23日夕方、京に到着します。 どれだけ草鞋を履きつぶしたことだろう、 どれだけ疲労困憊していたことだろう、 三条大橋に着いた後の新選組一行はそれでも、希望と野心をかかえて意気揚々と歩いていたに違いない!!(と妄想を膨らますにぽぽ) その5年後、近藤局長、罪人として東京板橋で斬首。 首は焼酎漬で京まで運ばれ、三条大橋の河原に晒される事になるとは、まさか夢にも思わなかったろうに・・・  京に入った浪士組でありますが、その宿は三条大橋(当時は三条小橋?)からまだ遠く 烏丸通、堀川通を超え 右に二条城を見ながら歩きます。 (にぽぽは、地下鉄に乗って一気に大宮まで移動します!) 大宮通りを南に入り、さらにしばらくいったろところの細道、綾小路通を曲がります。 光縁寺です。  新選組で切腹した隊士達のお墓があります、そして脱走の罪で切腹となった山南さんのお墓もここにあります。 なぜ切腹となったのか、いつか真実を教えてくださいねと合掌いたしました。 光縁寺から八木邸に向う綾小路通の景色  この通りの突き当たり左角が前川邸、角を左に曲がって斜め前あたりが八木邸となります。 道幅は車1台がやっとの狭さ、隊士達が歩いた頃と変わらない (と思われる)スケール感♪♪ 新選組屯所となった旧前川邸の長屋門  旧前川邸の角  山南さんが切腹の前に、恋人の明里と最後の対面をした窓は、取り壊されてしまってないそうですが、こんな感じだったのかなぁ…(゜。゜) 旧前川邸のおむかい八木邸長屋門(春先だったので植木の手入れ中でした)  浪士組約300人が、前川邸や八木邸のような壬生村の郷士の家に泊まったのです。この辺りの人にしてみたら、えらい迷惑だったでしょうねぇ。 特に前川邸と八木邸は浪士組解が江戸に帰った後も、近藤一派と芹沢一派が残留し、2年間新撰組の屯所として使われる事となる訳です。前川さん一家が家族で避難してしまうのもうなずけます 。というか、和気藹々と付き合いながら暮らしていた八木さん一家のおおらかさが素晴らしい。 にぽぽのひいおじいちゃんも浪士組に参加していたので、多分この辺りに宿泊していたんだろうなぁと、なかなかに感慨深いものがありますです。 八木邸を見学し、土方・沖田・原田・山南が芹沢鴨暗殺の時につけた刀の傷もしーーっかりと見てきました。 見学後には屯所もちとお抹茶を出してくれます。  お抹茶がしみる〜(>。<) 屯所餅は地名の由来でもある壬生菜が混ぜてあるおもち、美味しかったです。 壬生寺、八木邸のすぐ横というぐらい近い。  近藤局長の像がありました。  このお寺にも新選組隊士のお墓が建てられています。写っているのは会計方・河合耆三郎のお墓、50両紛失した罪での切腹でしたが、その真実はどうだったのか、気になるところです〜。 壬生寺本堂前  ここで沖田総司くんが近所の子供達と鬼ごっこをしていたのかぁ(o^-^)oと、しばし妄想にふけるにぽぽなのでした。 ここから島原に向いますが、それは次回につづく・・・ 最後まで読んでくれてどうもありがとう~~~ヾ(^∇^) ぽちぽちっと応援、どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m  
2008年5月11日 東京/  →  ども にぽぽ です=*^-^*= 今日は土方歳三さんの亡くなった日(旧暦)なので、 やはり!土方さんの事を書きたいにぽぽです。 実は、 にぽぽが新選組の特に“ 土方歳三”にはまったのは去年の夏、TBSで放送した『輪違家糸里』のドラマを見たのがきっかけでした。 数年前に大河ドラマになっていたときにもまったくスルーだったのに・・・ 『輪違家』での新選組や土方さんの描かれ方については、う?うぅぅぅん・・・・・?でしたけど、浅田次郎さんの原作本が本屋さんで平積みになっていたのを手にとり、となりに積んであった『壬生義士伝』もいっしょに購入し、そして小説だけでなく次へ次へと新選組関連の本を読みまくり、今年の春には京都へも行ってしまうほど、夢中ですo(*^▽^*)o にぽぽの住む多摩の本屋さんには新選組関連の本が割りと多く置いてあるのも幸いでした。 その中で、なぜに土方さんだったのかと言えば、最後の一人というところなのかなぁ? 戊辰戦争勃発してから、井上が逝き、永倉・原田とは道を別れ、近藤が逝き、沖田が逝き、独り残って戦い続けるというのはどんな思いだったのだろう、という事がにぽぽを惹きつけたのです。 仲間がいなくなって、独りになるという寂寥感を思うと心が苦しくなるし、その孤独に耐える強さに憧れます。 土方さんがあの世で 「そんなかっこいいもんじゃねぇよ」と言ってそうな気がしますけど(笑) 今日は日野では『歳三忌』が開催され、沢山の方が雨に負けず、足を運んだことだと思いますが、にぽぽは行けなかったので、来年はぜひに行きたい!!心に誓いましたヽ(`Д´) これは先週、日野を歩いた際に立ち寄った 高幡不動の土方さんと殉節両雄の碑  戊辰戦争が終わった後、幕府軍側の人達への慰霊は明治7年まで許可されなかったそうです。 特にこの碑は両雄(近藤勇・土方歳三)の幕府への忠節を讃える内容だったので、慰霊が許されても碑の建立の許可がなかなかおりず、ようやく建立されたのは明治21年になっての事だったそうです。 碑の建立には佐藤彦五郎さんをはじめ、土方さんたちにゆかりの人々が尽力しました。 碑の額は松平容保公、書は松本良順先生の筆で書かれました。 もちろん高幡不動尊の、当時の住職も建立に携わっていたそうですが、この碑には当時の住職の名前を記載せず、前住職の名前が記載されています。お寺への後難を避けるためだったのではないかと推測されているそうです。明治半ばになっても新選組、特に近藤局長と土方さんへの逆賊の扱いは厳しいものがあったのですね。 土方さんの像の足元には “みぞそば(牛革草とも言う土方家に伝わる石田散薬の原料)”が植わっています。  10月頃にピンク色の小さなかわいい花が咲きます。 その頃にまた、日野をのんびり歩こうかなと思っています。 余談ですが 京王線の高幡不動駅の近くには 『幕末めし処池田屋』という新選組ファンにとっては日野の屯所のようなところがあります。 ここの定食もいいのですが、にぽぽは駅のホームから見えるほど線路沿いにある 『珈琲はうす あんず村』がお薦めです。にぽぽが高校時代にずいぶん通ったお店ですが、70年代のような雰囲気で、時の流れがゆるやかなお店です。 どんすぱはにぽぽの高校時代と変わらず今も人気のメニューのようです。  写真はコンソメ味ですが、あとカレーとトマトがありますヨ。 高幡不動にお越しの機会がありましたらぜひ行ってみてくださいね♪ 最後まで読んでくれてどうもありがとう~~~ヾ(^∇^) ぽちぽちっと応援、どうぞよろしくお願いしますm(__)m  
2008年5月9日 東京/  →  ども にぽぽです=*^-^*= にぽぽの朝は はやい・・・・・゚(。 _ _)。o○グー 6:30amにはおうちを出て、新宿駅をターミナルって、浜松町にある会社に通勤しています。 その片道距離48km 往復なんと100km近くです!! とおいよ・・・(ヘ;_ _)ヘ ガクッ 一日40kmぐらいを歩いた江戸時代の旅ならば、約二日半の行程を一日で移動し さらにお仕事までしちゃうって。 現代人は大変です? (;^◇^;)ゝ なんといっても通勤ラッシュ! 新宿駅の私鉄とJRの連絡通路の混雑たるや  思わず手振れを起こすほどです アワワワ((((゚ □ ゚ ) ゚ □ ゚))))アワワワ さらに今朝の地震の影響で、山手線が遅延ぎみ。 いつもにましてジワジワっと人があふれてきておりました  気合で乗車! 内臓圧迫の状況にひたすら耐えます、耐えます、たえ・・・・た・・・・たぁ・・・・・ ストレスたまりまくる現代人にぽぽであります(TmT)ウゥゥ・・・ もうすぐ品川駅  品川駅と横浜まで鉄道が仮開業したのは明治2年(1872)5月。 10月には新橋−横浜で正式に開通、日本で始めての鉄道敷設となりました。 明治20年には横浜以西に延長された現東海道本線です。 明治17年、現高崎線(上野−高崎)、20年には大宮で分岐し仙台までの線路が開通、現東北本線。さらに水戸へ線路を伸ばし常磐線が開通。 明治18年、現山手線(赤羽から新宿、渋谷を経由して品川まで接続) 明治22年、現中央本線(新宿−八王子) 明治27年、現総武本線(錦糸町−佐倉)が開通。 明治時代には東京から全国各地への幹線線路が次々に整備され、現在のJRの線路網の原型は、ほぼ完成していたといいます。 戊辰戦争終結が明治2年(1869)、その前時代の260年以上が馬だの籠だのだった事を思えば、文明開化のそのスピードたるや、そのエネルギーたるや、ものすごいものを感じますネ。 目的地、浜松町が近づいてきました  現在の線路の位置が江戸時代の海岸線だそうです。 線路の右側、高層ビルが建っているあたりは海だったんですねぇ( ̄、 ̄;) 江戸湾(東京湾か)の埋め立ては家康公の時には始まっていたそうですが、それにしても 海が遠くなりすぎではないでしょうか〜(笑) 最後まで読んでくれてどうもありがとう~~~ヾ(^∇^) 楽しい週末をおすごしくださいね〜♪ ぽちっと応援、どうぞよろしくお願いしますm(__)m 
2008年5月5日 東京/  はじめまして にぽぽ です=*^-^*= 気が向くとお散歩に出かけます。歴史が好きなので、町中に由来の看板などを見つけると、ふらふら寄っていってしまいます。 にぽぽが眺めた景色を載せつつ、気張らず、ゆっくり、お散歩日記をつけていこうと思います。 どうぞ よろしくお願いします〜(´−`) 5月5日は新選組 鬼の副長、土方歳三さんのお誕生日と言われている日です。 なので、本日のお散歩は新撰組のふるさと日野を歩くことに決めておりました♪ にぽぽ自身、多摩在住なので、日野はとっても近いんです、ほとんど地元と言っていいぐらい。 新選組はだーーーーーい好きなのです \(*^▽^*)/ JR日野駅から徒歩12分 “日野宿本陣” ここは都内で唯一残る江戸時代に立てられた本陣建物でありますが、それだけではなく、新選組とふかくかかわりがあるところです。  土方歳三さんのおねーさんが嫁いだ佐藤彦五郎さんは、 ここに天然理心流の道場を開き、この道場に近藤勇や沖田総司、山南敬助が出稽古にくるようになりました。日野出身の土方歳三、井上源三郎と出会い、新選組へと続く交流が始まるのです。 道場は現在の門の向って左側、駐車上のあたりにあったそうですが、 残ってなくてとても残念・・・ 佐藤彦五郎 新選組資料館へ向います。 ここには近藤局長をはじめ、新撰組メンバーの生手紙があり、その人となりを感じることができるにぽぽとしては一番好きな資料館です 次に 井上源三郎資料館に寄りました。 今春、井上源三郎さんの埋葬地が判明したというニュースがありましたから、にぽぽはその場所の地図を見るのをとても楽しみにしていたのです。 いずれもにぽぽは2度目の訪問なのですが、GWであることと5月の日野は新選組一色に盛り上がる季節であることもあって、来場者が多かったですね。 でも両資料館の館長、佐藤福子さんと井上雅雄さんに丁寧な説明をしていただきました。 そしてもちろん、 土方歳三資料館へ行きました! にぽぽは土方副長が一番好きなのですものo(^-^)o 多摩時代なのであえてトシさんと書かせていただきます!! 建物は老朽化したため平成2年に建替えがおこなわれたそうですが、トシさんがお風呂あがりにお相撲の稽古をした柱を残したりしながら、住宅の一部を資料館として開館してくださってます。  5月はトシさんの愛刀、兼定他の特別展示があること、もちろん、本日がトシさんのお誕生日だからというのもあり、もうもうものすごーーい人でした。 資料館に入りきれないほどの行列、いや〜トシさんの人気はものすごい。 でも、こうして実際に生家といわれる家を見ると、 ああ、本当に“土方歳三”という人がいたんだなーと、実感がわきますねぇ。 そして家の庭にはトシさんが武士になって名をあげることを誓って植えた矢竹がいまも茂っていました。  資料館から住宅街を歩くこと数分、突如、木々の生い茂る森が出現。  とうかん森  江戸中期に土方一族が祀った稲荷大明神の社があり、それを守るようにしてムクノキ、カヤ、フジ、ヒイラギが枝を絡めあって存在しています。  とっても狭いながら、異次元につながっていそうな、なんとも不思議な空間です。 とうかん森の程近く、 トシさんのお墓がある石田寺があります。 門の後ろに写っているのは樹齢400年以上のカヤの木。  きっと幼少からのトシさんをよく知っているに違いない。 このお寺のすぐ裏手にはにぽぽが通っていた高校があります 高校生の頃は 新選組 にはまったく興味がなかったから 見に来ようとも思わなかった(;^_^A 境内に入ると“土方さん”のお墓ばかりですが、トシさんのお墓には案内板があってすぐにわかります。 あふれんばかりのお花が添えられていました。 土方家に伝えられている石田散薬の原料である “みぞそば(牛革草とも言う)”  が生えていた浅川のほとり  にぽぽの通学路でもありました。 今は住宅が建ち並んでいる土手沿いはにぽぽが高校の頃は水田で、トシさんの時代と あまり変わらない景色だったのかもしれないな。 トシさんがこの辺を歩いていた頃には こんな景色ばかりだったんだろうけど、   今は昔、住宅地の中に少しだけ残る景色となってしまいました。 この地は確かにトシさんのふるさとであるのだけど 、ふるさとに帰ることができなかった最期を知っているだけに・・・ なんとなく切ない気持ちになりました・・・ 土方歳三 辞世の句 よしや身は 蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君やまもらん 
| HOME |
|